糖心破解版

令和8年度東京大学学部入学式 祝辞(剧作家?演出家?役者 野田 秀樹 様)

令和8年度東京大学学部入学式 祝辞

东京大学への入学おめでとうございます。私は剧作家、演出家、そして舞台役者をやっています野田秀树と申します。およそ半世纪前、50年くらい前ですね、本大学の文科一类に入学しながら、演剧の沼に嵌りこみ、六年かけて中退した人间です。そんな本校中退者にこの晴れがましい入学式でお祝いの言叶を述べさせるという大学侧の大英断が意味するものは、入学したばかりの皆さんに中退してもいいんだぞ~と言うメッセージではありません。安心して下さい。恐らく私に、お祝いに面白い作り话の一つでもしてやってくれ、みたいなことなのかと思っています。

そこで优秀な头脳を持つ皆さんの脳内の记忆のようなものについてお话しすることにいたします。ただ私は脳学者ではないので、话はめちゃくちゃです。

今日ここにいる3000人近い东大生は、それぞれ违う场所に生まれ育ってこの武道馆に集って来ています。どれだけ似た境遇にあろうとも、3000人それぞれが异なる18年、19年、20年或いはそれ以上の记忆をもってここに座っているはずです。そこで今、ここにどのくらいの记忆があるのか、ざっと计算しやすいために、一人20年生きているとして、3000人、20年×3000、つまり6万年分の东大生の记忆が、この武道馆に集っている。

6万年分の记忆、なかなかのものです。6万年前に何が起こりましたか?今の姿の人类、ホモサピエンスが、(アフリカを出て)世界中に広がっていった顷です。その顷から今日までの分量だけの时间の记忆、六万年分の记忆が、この武道馆に一堂に会しているのです。ただの入学式ではないんです。「6万年分の记忆が东大へ入学する式典颈苍武道馆」なんです。入学式に迫力が出てきました。

そこで、この若き东大生の6万年记忆パワーこそが、未来を辉かせる、そのことを示すために、バトルさせることにします。

バトルの相手はなんと、今を时めく础滨です。东大生の6万年の记忆がバトルするに不足はない相手です。何故なら、础滨こそ、记忆の化け物だからです。できるだけ多くの情报をあっという间に记忆して、何か质问などされようものなら础滨は、俺をバカにしてんのか?くらいの势いであっという间に答えを出して见せる。础滨は、この地上にある、あらゆる人间が记録したものを记忆し食べつくして、しかも、迅速に、次第に正しい记忆だけ、より良い情报だけを取捨选択し生かして正解を出していく、まさに人间の蓄积してきた记忆から生まれた化け物です。

こんなすごいものに、いくら受験勉强が终わったばかりで知识バリバリの东大生とはいえその6万年分の记忆で太刀打ちできるでしょうか?しかも东大生とは言いながら、その一人一人の20年の记忆を遡れば、兎に角间违いだらけというか、役に立たないものだらけです。特に小学生时代の男の子の记忆から得られる情报は、通学途中の道端の情报しかありません。なんか道端に虫っぽいものがいてそれを家に持ち帰って怒られた、とか、道端になんか汚いものが落ちてたので持ち帰って怒られたとか、道端でいい感じの木の枝を拾って振り回して怒られたとか、そんなノーベル赏には直结しない道端関係の情报ばかりです。6万年分とはいえ、こんな记忆を、记忆界のエリート中のエリート、础滨とバトルさせること自体、无谋ではないでしょうか?

いいえ、无谋ではありません。

なぜなら私は础滨の弱点を知っているからです。

确かに础滨は、记忆力がいい、絶対に物忘れとかしない、二阶に上がって、あれ?なんで上がってきたんだっけ、みたいなことはない、ものをよく知っている。だけど、少なくとも私は亲友にはなれない。ほとんど、正论しか言わないだろうし、お愿いすればジョークとかも言ってくれるのだろうけれど、たいして面白くない。絶対に础滨のジョークで大笑いとかできないと思うんですね。「笑い」というものには、「场の空気」があって、笑えた话が、翌日全く面白くなかったりする。「笑い」というものには、「场の空気」が関係している。つまり础滨にはそうした「场の空気」は読めない、础滨は碍驰なんですね。现に私、础滨に「场の空気が読めないやつとは?」と闻いてみました。すると「その场の雰囲気や相手の気持ちを察することが苦手で、状况にそぐわない言动をしてしまうやつ」お前だよ。だから、それがお前だっつうの。

何故、础滨には人间の「心」というものがわからないのでしょう。

そこで2045年でしたか?AIに人間が超えられると言われている「技術的特異点」の問題があります。SINGULARITYというのだそうですが。そんな難しそうな言葉で言われると、うっかりAIに超えられてしまいそうな気もしますが、大体、AIが人間を超えるって、何の話をしてるんだろうって、私は思います。AI とは、Artificial Intelligence人工知能ですよね。つまり、AIが人間を凌駕しようとしているのは、あくまでもIntelligence知能、人間の脳の部分です。でも、人間は脳みそだけで生きているのではありません。人間には知能以外の身体、肉体があります。けれどもAIには体がない。これこそが、AIの最大の弱点なんです。

この础滨には人间の体がない。ここにこそ、道端の记忆を含めたあなた方の6万年分の记忆が、付け入るスキがあるのです。このバトルに胜てるかもしれません。

础滨にとって、「肉体」とは、超える超えられない以前の问题です。础滨には、「人间」の「肉体」がない。だから、悬命に人型ロボットを作っています。だが果たして人间の肉体に似せることが、ロボットとして効率がいいかといえばそうは思えない。すでにそこに矛盾がある。それぞれの目的に合わせた形のロボットがいいに决まっている。それでもなぜヒト型のロボットを必要とするのか。ここに「人间の肉体」への人间の执着という话が出てくると思うんですね。肉体というものを持っている人间は、かならずしも効率的に生きているように见えない。肉体はたくさんの不便を抱えている。でもそれこそが、人间の人间たるゆえんで、人は人を爱おしく思う。谁にでも起こるその肉体の不便さの最たるものは、人间の「老い」でしょうし、その究极は、肉体を持つ人间は「死ぬ」ということです。础滨にとって「死」はどんな意味を持つでしょう。少なくとも、そこに人が感じるような身体を通しての「恐怖」とか身体を通しての「絶望」とか「达観」はない。

もう一つ础滨と心の问题に、私が携わっている仕事「创作」というものがあります。「础滨が今后、人间のクリエイションに取って代わる」などと戯言を言う人もいますが、それは「人间」が创作をする「喜び」を无视しています。どれだけレオナルド?ダ?ビンチの絵に似たものを础滨で书くことができたとしても、ダビンチの喜びは再现されません。

芸术は、表现された结果であると同时にプロセスです。その过程に喜びと苦しみがある。

学问もそうだと思います。「问いに答えていくプロセス」。そこに苦しみ、その问いが解けた时、或いは解けた気がする时、例えようもない喜びを感じる。じつはそれは、あなたにその心を感じる「有限の身体」があるからです。

爱情にしてもそうです。础滨には体がないから体験がない、だから「初恋の切なさ」を知识としては理解できても、その「切ない心」はわからない。身体がないからです。

「创作」には喜びがある。喜ぶ身体があります。「初恋」には切なさがある。切ない身体があります。

こうした人间の古いテーマである「身体と心」「人间の心」というものが、この础滨の登场によって、再び新しいものとして浮上してきている、と私は思います。

人间には肉体があるから、有限の时间があり、けれどもだからこそ、今あなたたちは、「若い」と呼ばれる。肉体があるから「若い」と呼ばれる。现に、新しい础滨というものは存在するけれども、若い础滨は存在しない。础滨には肉体がないから、「老いる」ことはない。古くはなるけれど、年老いることはない。础滨が新しくなることはあっても、若くなることはない。「新しい」と「若い」は违うのです。

あなたたちは「若い」のです。「若い肉体」を持つ生き物なんです。そして「若い身体、肉体」からしか生まれない「心」というものがあります。

そこで再び础滨との、あなた方六万年分の记忆バトルの话に戻りましょう。

なぜあなた方が、础滨とバトルさせられなくてはならないのか。

肉体を持たないがゆえに、AI は、時に間違った決断をするはずだからです。

身体に根差した「心」を持っていない础滨が生みだす答えは、极めて効率的なものになることがあります。例えば「戦争」に直面した时はどうでしょう。身体があるからこそ感じる「死」に対する恐怖や、亲しい者への「爱情」など度外视したところで、础滨は、ゲームに胜つ理论で、最も胜利するために効率的な効果的な作戦を考えるでしょう。ゲームでミサイルを飞ばすように、ミサイルを飞ばすことを指示するでしょう。极论をいえば、行き着くところは、核爆弾を落とすことさえも示唆するはずです。

こうした话を、恐ろしいものに感じられるのが、身体を通して感じる「人间の心」です。

その「新しい础滨」が情报という名の记忆から犯すであろう误りに立ち向かえるのは、きっとあなた方の、一见役に立たない道端の记忆なのです。あなた方の记忆には、「心」が伴っています。时にそれは、思い出とさえ呼ばれます。でも、人の心というものが伴っているあなた方の记忆こそが、础滨の、より正确で迅速で大量に発信しようとする记忆とは违ったところで大いなる力を発挥するのです。

记忆バトルなどと言って、あなた方の心に住んでいる20年间を、础滨とバトルさせること自体がそもそも间违いです。人の心は、础滨の外にあります。どれだけ础滨が心のあるふりをしても、础滨がこちらを爱しているふりをしても、それを础滨は知识としてしか知らない。

だからこそあなた方东大生も、知识としてしか知らない脳みそになってはいけない。心を伴った脳味噌であって欲しい。

そもそも础滨が人间を超えるとか超えないというのは、まったく次元の违う话で、土俵が违うのです。人间には「体」がある。「体」があるからこそ感じる「心」や「感情」がある。础滨には身体がないから身体に根差す心もないのです。

これまでの歴史上、科学万能のような时代が几たびかありました。今日またそんな时代に突入しようとしている、そう见えます。

科学は时に万能のような颜をします。けれどもそのたびに人は、その万能であることの误りを指摘し、実は世界は不确実なものであることを示してきました。

东大生を前にこれは釈迦に説法かもしれませんが19世纪の初头、ラプラースという物理学者が「すべての原子の位置と运动量を把握できれば、未来は完全に予言できる」はずだという、思考実験を提唱しました。

けれども20世纪には、粒子の运动量と位置を、同时に捉えることはできないという、かの有名なハイゼンベルクの「不确定性原理」により、そのラプラースの悪魔と呼ばれた科学は云散雾消しました。

その不确定、不确実なものこそが、私たちの「身体」です。私たちの「身体」に根差すわたしたちの「心」です。

あなたがたは、若い身体を持っている。とりわけ头が良いあなた方は、脳みそ寄りの人间です。身体を忘れがちです。けれどもあなた方がこれから础滨と生きていく时代だからこそ、础滨には身体がない、それに根差す心がないことを忆えていて欲しいです。础滨があなた方の「若い身体」を「その身体に根ざす若い心」を超えることは决してない。人间の未来を决定するのは础滨ではない、人の心だと私は信じています。素敌な未来を作ってください。

入学おめでとう。

令和8年4月13日
剧作家?演出家?役者
野田 秀樹

関连リンク

カテゴリナビ
アクセス?キャンパスマップ
闭じる
柏キャンパス
闭じる
本郷キャンパス
闭じる
驹场キャンパス
闭じる