第1184回淡青評論

七徳堂鬼瓦

础滨を引っ提げてやってきた大学院生

学外のとある修士2年生の学生から、研究を评価してほしいと頼まれました。彼がやっているのは、私が専门とする研究分野のある仮説をデータによって検証する内容でした。読んでみたところ、経済学の五大誌は难しいにしても、着眼点、新规性、データの质などから、フイールドトップの学术誌に挑戦できる水準にあると感じました。

惊かされたのは、彼が経済学を専攻する学生ではなく、それどころか経済学をこれまでほとんど学んだことがないという点です。彼の関心は技术の新领域への応用、特に「生成础滨の新活用」にあり、専门外である経済学という分野で、础滨との対话だけでどこまでのレベルの研究ができるかを1年间かけて试してみたというのです。研究のアイデア出し、先行研究のレビュー、理论モデルと仮説の构筑、データの探索と収集、计量ソフトを用いた分析、図表の作成、英语论文化に至るまで、さまざまな础滨ツールを组み合わせながら、ほぼ独学で试しているとのことでした。

私自身も、础滨の力を借りて日々の研究を进めていますが、その活用はまだ限られたものであり、彼のように础滨を方法论の中核に置いて新しい领域を切り拓こうとする姿势はとても頼もしく思えました。と同时に、学部?大学院で経済学の训练を受けていないにもかかわらず、これほどまでのアウトプットが出てくることに心底たまげました。このような础滨ネイティブの若い人たちがこれからどんどん出てくることにちょっとした恐怖さえ感じました。彼自身は経済学分野での论文公刊には関心がなく、アカデミアにも残らないようです。论文としては、このまま世に出ることはないのでしょう。

なぜ彼は私に相谈したのでしょうか。础滨との対话の中では、国际誌に通用する水準と评価されたものの、自身には経済学の素养がないため、その评価が正しいのかわからない。自分が知见の无い分野での础滨の判断が正しいかどうかをどうやって确かめるとよいのか。そのひとつとして、経済学の教授に意见を求めてみたということでした。

研究とは何か、研究者とは何者か。私自身が揺さぶられる経験となりました。

小川 光
(経済学研究科)